「あるドキュメンタリーの存在証明」
2011年12月10日に開催した、ミケランジェロ・アントニオーニ監督『中国』(1972)上映会×討論会「映像としてのアジア」で発表した原稿を掲載します。(専大の社会科学研究所の共同研究の一環です)。
なお、シンポジウムじたいの概要については、こちらのブログ「図書館は炎に包まれている」にプログラムがありますので、興味のあるかたはご覧ください。
2011年12月10日に開催した、ミケランジェロ・アントニオーニ監督『中国』(1972)上映会×討論会「映像としてのアジア」で発表した原稿を掲載します。(専大の社会科学研究所の共同研究の一環です)。
なお、シンポジウムじたいの概要については、こちらのブログ「図書館は炎に包まれている」にプログラムがありますので、興味のあるかたはご覧ください。
「欧米圏から見た東日本大震災」 2011年11月26日(土) サテライト・キャンパスにて, 口頭発表を行いました。以下に、発表原稿からの収録を紹介させていただきます。
まえおき
はじめに、このような研究発表会の意義について、かんたんに触れておきたいと思います。
災害と呼ばれる現象の本質は,何でしょうか? わたしはそれは地震,火災,洪水,山崩れなどの現象と人間社会とのかかわりかたに存していると思います。このことから物理的災害現象の研究に加えて,人間も含めた空間的,時間的災害の研究が必要になります。
ところで通常の人間が個人で持ちうる災害の情報やイメージは,災害の全体像のごく一部分でしかありません。いっぽう、災害で起こる非日常的な変化、とくに、これから前半部で見るような〈こわれる〉とか〈もえる〉といった物理現象は、あまりにも強い心理的印象を与えがちです。そのため、そうした特定の物理的メカニスムを理解することで「災害がわかった」という錯覚に陥ってしまうことがあります。
その結果、これまでの災害認識は,物理的な破壊性の強い局面の印象にひきずられ,災害の時間的・空間的展開と人間との関係については,考察が立ち遅れているのが実情です。
両者の関係を理解するために必要なことは,現実に災害に遭遇した人たちや社会がもっている数多くの災害のイメージの断片を,可能なかぎり多くかつ新鮮な状態で収集し,それらを時系列で並べ,空間的位置づけを整理することでしょう。このような地道な努力によって、たとえ十分とまではいかくとも、災害現象の本質への共同作業が開始されると思います。
ただし、このとき注意しなければならないのは,災害が時間的・空間的広がりをもった現象であるため,一人の人間が知りうる情報には限界があることです。定常的な現象や、習慣となった経験、また、ごくごく小規模な災害であれば,〈一を見て十を知る〉ということも可能です。
しかし,今回のようなケースでは、それは不可能でしょう。第一に、地震・津波の地理的な規模、第二にそれによって引き起こされた放射能汚染の拡散の生態系的な規模、第三に、放射性物質の半減期の気の遠くなるような時間的規模、これらの三点を思い起こして下さい。
むしろわたしたちは、この震災の全体像を首尾一貫したものとして完成するなどという企ては、まず不可能であって、あたかも神のごとき全知の視点に立とうとするようなものだ、という認識を、議論の前提として共有しておく必要があります。
[ 本論のつづきは「20111126.pdf」をダウンロードをどうぞ ]
先年のシンポジウムをもとに、J.-L.Godard『中国女』と『夜明けの国』をめぐる受容史的な比較論を、下記の共著に寄稿しました(p.140-149)。単行本そのものは、中国現代文化論として、たとえば東方書店などでも比較的よく売れているようで幸いです(分野違いの拙稿が他の専門家のかたがたの「足を引っ張る」ことだけは避けられたようです)。土屋さんをはじめ、関係者の皆さんにはいろいろお世話になりました、ここに謝意を記しておきたいと思います。
◆土屋 昌明 (著, 編集), 鈴木 一誌 (著), 前田 年昭 (著), 中島 隆博 (著), 下澤 和義 (著), 印 紅標 (著), 森 瑞枝 (著), 時枝 俊江 (著), 岩波映画製作所 (著)
『目撃!文化大革命 映画「夜明けの国」を読み解く』
DVD付 (DVDブック) (単行本)
太田出版; A5版 (2008/4/10)
ISBN-10: 4778311108
以下、拙論の「不実な鏡」の書き出しの一部だけをアップしておきます。続きは、本書のほうでDVDとともにどうぞ。
中央大学人文科学研究所編『アルス・イノヴァティーヴァ』(中央大学出版部, 2008.2, pp.155-208)所収の論文で、視聴覚的な「ジャンル」としてのMVに関する、美学理論的なアプローチとしては、おそらく本邦初の本格的(?)なものではないかと思っています。
ミュージック・ヴィデオにはすでに四半世紀を超える歴史があります。その歴史が決して名作だけからなる歴史ではないことは、文学や映画や音楽の歴史と同じでしょう。けれども、世界規模で送り手と受け手の層が厚くなるにつれて、短期間と低予算で作られる広告という従来のミュージック・ヴィデオ観を塗り替えるような作品が現れてきていることも確かです。
今後も、さらにこのサブカルチャー的な「ジャンル」を、より広い意味での美学的「モード」(様態)として考察していきたいと考えています。この場にて、拙稿の口頭発表の段階からお世話になっている研究会のメンバー&研究所の編集スタッフのかたたちに、感謝の辞を捧げます。

2007年7月10日付で、音楽之友社から拙訳によるフルトヴェングラーの伝記が出ます。414頁、3,500円。以下の文章は末尾に付ける「あとがき」のための原稿から、です。
フルトヴェングラーといえば、ドイツ音楽の精髄を体現した指揮者ということになっているが、彼のようにその芸術性が普遍的な次元にまで到達し、母国はもとより世界中にフルトヴェングラー協会のような組織が設立されている指揮者はまずもって存在しない。その各国の協会のなかでも、日本と並んで会員数の多さを誇っているのが、フランス・フルトヴェングラー協会(SWF)なのである。本書は、そうしたフランスを代表するフルトヴェングラー愛好家・音楽評論家のジェラール・ジュファンによる、下記の著作の全訳である。Gérard Gefen, Wilhelm Furtwängler: la puissance et la gloire, Paris, Archipel, 2001, 301 p.

本書の読者のために、訳者としては二つだけお断りしておかねばならないことがある。まず一つは、原著には、「フルトヴェングラーの芸術」と題されたCDが付録としてついており、巨匠の演奏のハイライトが聴けるのだが、邦訳版では諸般の事情により、残念ながらこれを断念せねばならなかったことである。もう一つは、とりわけ熱心なファンの方には気になるところと思われるが、ディスコグラフィに関することである。原書の刊行は六年前に遡るため、せめてディスコグラフィには最新情報を反映させようという配慮から、特別に浅里公三氏に監修としてのご協力を戴いた。厚くお礼申し上げるしだいである。また、音楽之友社の石川勝さんには辛抱強い伴奏者の役割をつとめていただいた。記して謝意をあらわしたい。
◆「文化大革命」40周年記念 シンポジウム
イメージとしての「文化大革命」
――映画「夜明けの国」をめぐって中華人民共和国成立後、日本初の現地ドキュメンタリーとして制作された『夜明けの国』の検討を軸に、映像にうつされた「文化大革命」を多様な観点から議論する。
2006年7月16日(日)午後13時30分~
専修大学神田校舎102教室(2号館1階)
〈開会〉 13:30
〈解題〉
〈上映〉 13:45~15:35
休憩
〈発言者テーマ〉 15:45~16:45
土屋昌明(専修大学) 「映像と現実」
鈴木一誌(ブックデザイナー)「シナリオの帰趨」
下澤和義(専修大学) 「文革を遠く離れて――ゴダールを中心に」★
中島隆博(東京大学) 「舌のない人間のように」
〈討論〉 16:45~18:00
★上記のシンポジウムの講演原稿をPDFファイルでUPします。ただし当日の口頭発表では、かならずしもこの文面の通りではなかったことを補足しておきます。
「loin_de_la_revolution_culturelle.pdf」をダウンロード
「映像と記号のエチカ : ロラン・バルトの『ジュリアス・シーザー』論をめぐって」
2005年10月付けで、専修大学文学部紀要、『人文論集』第77号に一本、バルト論を発表しました(p. 231-267)。マンキウィッツ監督が、シェイクスピアの悲劇を題材に撮った映画、『ジュリアス・シーザー』をめぐってのバルトの記号学的経験、とくにソシュール理論の導入(1954年当時)のあとづけを中心として、『現代社会の神話』に所収の映像論に、生成批評的(というほど大げさなものではありませんが)なアプローチを試みています。カルチュラル・スタディーズの源泉ともいうべき、バルトの映像論の「発生現場」に立ち会えるような瞬間を追い求めた、ささやかな試みのひとつです。
本書は、戦後フランスを代表する批評家ロラン・バルトが、大衆消費社会に向かう高度成長期のフランス社会を、文学や政治のみならず、広告・スペクタクル・スポーツ・自動車・料理など日常生活の細部にまでわたって幅広くとりあげ、そこに働いている現代的な「神話」すなわちステレオタイプを分析した『現代社会の神話』の全訳です。
従来、本書は人文諸科学初の記号学的な著作として位置づけられてきました。けれども、このエッセイ集は、単なる抽象的な理論書にとどまらないもう一つの性格を同時に備えていると言えます。週ごとのメディア情報に鋭敏に反応しつつ、しなやかな批判的思考をつむぎだしてゆく、文学者、美学者、社会学者、ジャーナリストといった多彩な顔をそなえた、「エッセイスト」としての実践態の魅力――、これです。
例えば、著者は当時のグラビア誌が表紙にした黒人少年の敬礼する写真を取り上げて、メディアの大衆操作、すなわち植民地主義的なメッセージを記号学的に解明しています。この分析例は、カルチュラル・スタディーズやメディア・スタディーズで必ず取り上げられる最も有名なケースであるにもかかわらず、その肝心の写真資料は今回の邦訳作業に至るまで特定されてきませんでした。
しかし、そのメッセージの核心をなす「フランス性」の本当の意味は、実際に写真の「画面」を見て少年の鮮やかなまでに白い掌を確認することによって初めて確認されるものであり、さらに言えば、理容院でその『パリ=マッチ』誌と出会ったときにかかる記号学的発見が生まれたのだという経緯まで書き込まずにはいられないエッセイストとしてのバルトの資質を理解するためには、そのような記号学的経験の具体性・個体性・特異性を回復することが欠かせないはずです。
本書のフォーレの歌曲をめぐるエッセイのなかでも、バルトは「どんな形式でも抽象を目指す必要がある」と述べています。「それはすこしも官能性に反することではない」。神話学の記号論的な形式化は、「記号」の皮膚感覚と両立可能なのではないでしようか? このような意味で、拙訳およびやや煩雑ながらその訳注(annotaions)が、新たな神話学者像の創出に貢献できていれば幸いです。
PS. 評論家の坪内祐三氏が、中央公論社の『論座』2005年5月号に、ご自身のコラム「雑読系」(第71回)で書評を書いてくれました、深謝します。 (pp. 324-327)
アラン・シャニーは昨年冬亡くなったフランスの寡作な小説家です。生前出版されているのは二冊だけ。そのうち第一作の『解散命令』はガリマール社から1972年に出版され、J・デリダをはじめ、J.M.ル・クレジオ、D.フェルナンデス、J.ガルサンたちの熱烈な支持を受けました。彼が26歳のことです。ところが作家は、その後オーヴェルニュ地方の高山に移住し、牧畜生活を始め、あたかもランボーのように≪書くこと≫と断絶してしまいます。そのシャニーが1992年に突然の沈黙を破って発表した短編集が、『パリの乾き』でした。同書から、散文詩のような「昏睡する友たち」全文を訳したものをUPます。

Philippe Djian, ≪Une raison d'aimer la vie≫の試訳です。1984年にブローティガンが自殺したときに彼の死を悼んで書かれたテクスト。出典は彼の短編集の『クロコダイルたち』(1989年、ベルナール・バロー社)。

自殺したブローティガンの短編「花を焼く人」を昔ためしに(自分用に)訳したものをUPしておきます。「花」というのは、作品にあるように紫色のアヤメ(写真)のこと。藤本和子さんによる伝記を読んだら、我が身の語学力を顧みず、遺稿集を訳読してみたくなったのです。
Richard Brautigan, "The Flower Burner", The Edna Webster Collection of undiscovered writings, A Mariner Original, Houghton Mifflin Company, Boston, New York, 1999.
助手時代に東京都立大学人文学部紀要『人文学報』No.285(1997, p.37-59)に発表したギュスターヴ・ランソン論をPDFファイルにしたテクストです。AcrobatReaderで閲覧可能です。
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