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ヨブの妻の場処  ジョルジュ・ド・ラ・トゥールとフランスの文学者たちをめぐって

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"Job raillé par sa femme", George de La Tour"

 * 中央大学紀要『中央大学人文研』第43号, 2002年, p. 199-239 に掲載した論文の全文(約86枚)です.  

ヨブの妻の場処   ジョルジュ・ド・ラ・トゥールとフランスの文学者たちをめぐって


 1993年のある秋の朝遅く、美術商のメッカともいうべきパリ九区のドルーオ通りの競売所では、翌日のオークションを控えて、第三保管室の点検が行なわれていた。その部屋の片隅で、競売所の目録に記載されていない絵が一枚、埃まみれの状態で発見される。砂漠の聖ヨハネを描いた、この90センチ×120センチのかなり大きい肖像画には画家の署名はなく、鑑定人たちのどよめきは、その日のうちに、ルーヴルの絵画部門の学芸員長ピエール・ローゼンベルクの耳にも届くことになる。
 「ラ・トゥールか、それともラ・トゥールではないのか?」——日刊紙『フィガロ』がその《発見》から二週間後に掲載した記事の見出しは、そこで何が問題になっているかという核心を簡潔に伝えている(1)。この聖ヨハネの肖像画は、その後一度フランス国外に流出したのを、94年にモナコで仏文化省によって買い戻され(約1100万フラン)、やがて1997年にグラン・パレで大規模なラ・トゥール展が開催されたおりに、ようやく同画家の作として一般の目に公開・展示されるにいたった。したがって、『砂漠の聖ヨハネ』はローゼンベルク本人が監修している1992年のボルダス版カタログには掲載されていないが、5年後の展覧会に際して刊行された国立美術館連盟版には、カラーの図版とともに収録されることとなったわけである(2)。
 この美術界の挿話が物語っているのは、17世紀ロレーヌ地方出身のこの画家が、今日もなお流動的な存在規定のうちにおかれており、その意味で、不断に更新されつづける美術史的な対象だということである。なるほど、歴史資料の少ない過去の作品に関する解釈は、実証的な調査の進展に少なからぬ影響を受けるものだ。しかし、われわれの関心を惹きつけるのは、そうした調査の進展とは別の次元で起きている事態、いわば「認識論的障害」(ガストン・バシュラール)にならって「美学的障害」とでも呼びうる事態である。そこにおいて重要になるのは、「すでに存在している問題」にたいしていかに誤謬を減らしながら正解に漸近してゆくかということではなく、「まだ存在していない問題」をいかにして明るみに出すかということである。
 もとより紙幅の制限から、この論稿は美術史的な観点からラ・トゥールの総合的なモノグラフを企てるものではない。むしろここでは、大戦間のパリの展覧会で公開された一枚のラ・トゥールの絵(エピナル美術館所蔵)をめぐって、時期もジャンルも異なる書き手たちの著書を比較照合することを通じ、彼らの視線の交錯のなかからその作品の存在論的輪郭を描き出せればと思う。以下の本論では、ルネ・シャールに始まって、アンドレ・マルロー、ミシェル・セール、パスカル・キニャールなどのテクストを順次とりあげることになろう。だが、彼らの視線が向けられている場処に存在しているのは、物理的に同一の絵画であるとともに、同時にまったく別の作品であるとさえ言うべき、二重のタブローなのである。

 われわれはまず、フランス文学に現代詩の孤峰を築いているルネ・シャールの視点を借りて、そのラ・トゥールの絵を眺めてみることにしよう。連合軍の北仏上陸をまぢかにひかえ、占領軍との攻防が熾烈をきわめていた第二次大戦末期、シャールはレジスタンスの闘士として南仏のバス=ザルプ県で抵抗活動に携わっていた。ひとりまたひとりと同志たちが斃れてゆく状況にあって、詩人の精神的な支柱になっていたのは一枚のささやかな複製画だった。その絵は、散文詩『ヒュプノスの紙片』の著者の瞳には、当時の占領下の苦境をそっくり反映しているように見えたのである。

 私が仕事をしている部屋の石灰の壁に留めた、ジョルジュ・ド・ラ・トゥールの『囚われ人』の色刷りの複製は、その意味を私たちの状況のなかで、時間の経過とともに、映し出してしているように見える。この絵は心を締めつける。だが、それは何と渇きを癒してくれることだろう! 二年このかた、ドアを通るときこの蝋燭の試練にあって目を焼かれなかった対独協力の拒否者はひとりとしていない。女は解き明かし、幽閉された男は聴き入っている。赤い衣の天使の現世の影からこぼれ落ちる言葉は、本質的な言葉、ただちに救済をもたらす言葉だ。独房の奥では、蝋燭の灯の獣脂が刻一刻と、座った男の顔を照らし出してはまた闇に溶かす。乾いた刺草のような彼の痩躯、それを震えさせるような思い出は、私には一つとして見当たらない。小鉢は廃虚となっている。だが、ふくらんだ衣が、とつぜん独房いっぱいに広がる。女の《言葉》は、どんな夜明けよりもみごとに、予期せぬものを誕生させる。
 人間的な存在たちの対話によって、ヒトラーの闇を抑えてくれたジョルジュ・ド・ラ・トゥールに感謝する(3)。

 『ヒュプノスの紙片』は1944年前後に執筆された作品である。詩人のいるバス・アルプ県にゲシュタポが本格的に進軍し、同地域がドイツの勢力下に入ったのは42年12月のことだが、とりわけ終戦にかけての数ヶ月間の抵抗戦は過酷なものだったと伝えられている。44年5月には、シャールが「抵抗活動におけるわたしのいちばんの兄弟」と呼んでいたエミール・カヴァーニが、ドイツ軍の待ち伏せにあって戦死する。続く6月には、若い詩人のロジェ・ベルナールも、SS(ナチス親衛隊)に捕らえられ銃殺される。パラシュート降下部隊の地方隊長の任にあったシャールは、7月なかばに任務で北アフリカに渡るが、友人のロジェ・ショードンを含む十人のレジスタンスの訃報をアルジェで受けとることになる。数々の犠牲の果てにパリが解放されたのは翌月の26日である。
 こうした限界状況におけるイコンにも等しかった『囚われ人』の複製画は、戦後はイル・シュル・ソルグのシャールの生家で書斎に飾られていたと、詩人宅を足繁く訪れていたピエール・ゲールが証言している。ゲールは1961年のシャール論のなかで、詩人の部屋の様子について、「仕事をする小さな机。ガラス張りの書棚。窓の近くに、書類や本を積み重ねた別の机。暖炉棚の上には、古い置き時計のそばに、少年ランボーの写真。そして、ジョルジュ・ド・ラ・トゥールの『とらわれびと』の、赤く黒いカラーの複製が、マキ活動から持ち帰られたまま、板の上にピンでとめられている」(4)と語っている。ちなみに、ラ・トゥールの絵とともに守護天使的な存在となっているランボーについて言えば、シャールは1956年のランボー論のなかでも、ラ・トゥールをこの象徴派の詩人と並べて、次のように称賛している。すなわち、「ランボーとともに詩はひとつの文学ジャンル、ひとつの競争ではなくなったのだ。ランボーの以前には、ヘラクレイトスと画家のジョルジュ・ド・ラ・トゥールが、人間はなかんずくいかなる《家》に住まうべきかを構築して見せてくれたのである。息吹きのためにも、同時に瞑想のためにもなるような住み処を」(5)。
 ヘラクレイトスとラ・トゥールの組合せには、『ヒュプノスの紙片』と前後して書かれた「断固たる分割」という散文詩の断章IXでも、彼らから人間の条件に関する本質的な示唆を受けたとして謝辞が捧げられている。さらに戦後なってからも、シャールはラ・トゥールの『いかさまカルタ』や『徹宵のマドレーヌ』といった作品を契機に詩を制作している。1968年の『ル・モンド』紙によるインタヴューの際、同年の詩集『獲物の多い雨のなかで』においてこの画家を選んだのはなぜかと質問されたシャールは、「しばしばジョルジュ・ド・ラ・トゥールは、人間という丈の高い草々の下にばらまかれている詩的な神秘を、私にとりなしてくれる仲介者なのです。神に選ばれし者の光輪は、彼の描く人物たちの頭の背後にも、彼自身の頭の背後にも、存在しはしません。画家、人間であるジョルジュ・ド・ラ・トゥールには『わかっている』のです。私は『わかっている』と言うのであって、『わかっていた』とは言いません」(6)と答えている。
 ラ・トゥールの絵画においては、聖書の題材をあつかった場合でも、モデルの農民たちが根源的な人間の条件のうちにあるがままの姿で描き出されている。ここでシャールが動詞《 savoir 》を半過去形の《 savait 》にせず、わざわざ現在形の《 sait 》にしているのは、そうした人間存在の把捉が、現代詩の作者にとっても、時代を超えた直接性のうちに共振しうるものだからであろう。このようにラ・トゥールの芸術は、シャールの詩的世界にあってはたんに壁に彩りを添える装飾品などではなく、「岩っぽい我が巣の羊毛」(7)という本質的な構成元素になっているのだ。
 詩人におけるそのようなラ・トゥール経験の出発点となったのは、1934年にパリ市内のオランジュリー美術館で開催された、「17世紀のフランスにおける現実の画家たち」という展覧会であった。同展覧会は、数名の地方画家たちの作品を集めた合同的なものであったが、このとき『囚われ人』も含めて12点の作品がラ・トゥールの名前で初めて展示されており、シャール全集の決定版であるプレイヤッド版の編者、ジャン・ルドーによれば、シャールはこの展覧会を訪れたとされている(8)。同展覧会のカタログから、『囚われ人』の記述を紹介してみよう。

  作品番号45. 『囚われ人Le Prisonnier 』(牢屋から解放される聖ペテロ?)
 薄暗い独房のなか、ほとんど裸の老人が一人、木製の台に座っている。彼は両手を組み、その足もとの地面には、見分けのつきにくい品物があるのが目に入る。欠けた小鉢かもしれないが、もしかすると、鉄で作られた大きな足輪かもしれない。それは囚人の足を固定するのに使われた中世の器具を連想させる。彼が頭を上げている方向には、一人の若い女性がいる。彼女は、その老人のほうに顔を傾け、そのまえにまっすぐに立ち、右手には蝋燭を持って、左手では彼に立ち上がるように促しているような身振りをしている。彼女が纏っているのは、腰の位置がとても高く、朱色をした衣で、ゆったりしたその袖を通して、ブラウスのぴったりしたカフスがのぞいている。彼女の頭は、ターバンを思わせる白い頭巾で覆われている(9)。

 同カタログの注釈者、シャルル・ステルランは、この作品のタイトルを『囚われ人』、もしくは疑問符つきのまま括弧に入れて、「牢屋から解放される聖ペテロ?」と記載している。ステルランは、同作の所蔵館のカタログも、この絵の主題の不透明性をすでに認めていたことを指摘している。「この絵の主題は現在に至るまでうまく同定されていない。大抵それは『囚われ人を訪(おと)なう女』として指示されている。すでにアンドレ・フィリップ(エピナル美術館のカタログ)は、この題名を踏襲しているいっぽうで、それに満足していないような面もあった。つまり、『このありふれた題名は他の題名がないために付けられたものであり、この場面の持っている中心的な意味はわれわれには理解できていない。ド・ラ・トゥールはその数々の宗教画に、世俗的な雰囲気を意図して与えているのである』」(10)。
 では、シャールの『ヒュプノスの紙片』に10年ほど先だつ時点で、ステルラン自身はこのタブローをどう解釈していたのだろうか。ステルランが提起しているのは、『使徒行伝』における宗教的な救済の主題である。「われわれは、翼の無い天使(もっとも聖ヨゼフに現れている天使も同じだが)や、ほとんど裸身の使徒という奇異な外観にもかかわらず、この場面が『牢屋から天使によって解放される聖ペテロ』を表すと考えている。この解釈は例外的なものだとしても、聖書のテクストにはそれでも完全に忠実なのである」(11)。聖書の語るところによれば、ユダヤの民の人心をつかもうとするヘロデ王は、キリスト教徒を激しく弾圧した。宣教をしていたペテロも捕らえられ、とうとう処刑を明日に控えた夜のことである。ペテロは二人の兵士の監視するなか、二本の鎖で繋がれて牢屋で眠っていた。

 すると主の天使が突然あらわれ、光が牢の中を照らした。天使はペテロのわき腹をつついて起こして、『急いで起きなさい』と言った。すると鎖が彼の手からはずれ落ちた。天使が「帯を締め、履物をはきなさい」と言ったので、ペテロはそのとおりにした。また天使は「上着を着て、ついてきなさい」と言った(12)。

 この『使徒行伝』第XII章第7-8節は、ステルランも引用している個所だが、ステルランはこの宗教的な典拠に対して画家が二重の態度を取っていたと考えている。すなわち、「ラ・トゥールは聖書を字義通りに解釈すると同時に、カラヴァッジョの他の弟子たちと比べて、独自のやりかたで解釈する大胆さを持っていたということがわかる。そうした弟子たちは、しばしばこの主題を取り上げはしたが、それは伝統的な精神に基づいてのことであった」(13)。これを読むかぎり、ステルランは『囚われ人』の物語的な内容を聖書という参照源によって基礎づけつつ、イコノグラフィの点では画家の独創による伝統からの逸脱を認めるという折衷的な立場をとっているように見える。
 いっぽう、シャールの散文詩に戻ると、「救済」、「赤い衣の天使」、そして大文字にされた「《言葉》Verbe」といった一連の表現から、詩人もこの画面に宗教的な文脈を読み込んでいることは明らかである。しかし同時に、「女の《言葉》は、どんな夜明けよりもみごとに、予期せぬものを誕生させる」とあるように、シャールが絵の中の男に自らを重ね合わせるのは、さきに紹介した対談中の表現をくりかえすなら、「詩的な神秘」を待望する書き手としてであって、宗教的な神秘の到来を切望する信仰者としてではない。戦争という異常事態において、倫理の限界経験にフォルムを与える詩的言語の可能性を探し求める詩人にたいし、彼女は未知の《言葉》の担い手として顕現しているのだ。
 シャールのテクストのなかでは、『牢屋から解放される聖ペテロ』という宗教的原典に参照づけられた題名より、一般的な『囚われ人』という題名が採られているが、この選択には、「救済」なら「救済」の概念に関して、人間存在の原点に立ち戻りつつその意義を前景化しようとする志向が認められる。このような志向は、大戦後の51年に小説家のアンドレ・マルローが発表した『沈黙の声』にも見られると言ってよい。同書は美術評論であるため、絵の解釈は詩人のシャールとは違って、美術史的な観点からなされているが、『囚われ人』という題名はそのまま踏襲されている。
 『沈黙の声』でのマルローは、ラ・トゥール的な人物造形はセザンヌ風の、さらにはキュビスム風の様式とも近接していると指摘している。実際、『囚われ人』にかぎらず、ラ・トゥールの多くの人物像は、実際キュビスムを思わせる、幾何学的な立体構成を特徴としている。ミケランジェロに代表されるイタリア・ルネサンスにおいては、躍動的なマッスをもった肉体描写の力動感が顕著だが、ラ・トゥールのそれは対照的に静謐な緊張を基調とした描写だと言えよう。
 だが、それとともに重要なのはラ・トゥールにおける明暗法の意味である。「カラヴァジェスク」という言葉もあるように、カラヴァッジョ以後、その明暗法がヨーロッパ絵画に流行・伝播したことはよく知られている。それは、画面の人物たちを前景に集め、強い光を意識的にあてることで、観客の注意を主題の出来事に引きつけ、本質的でないものを背景の暗闇に溶解させるという、一種のドラマ化の手法だと言ってよい。こうした演劇的な明暗法スタイルは、16世紀後半から「テネブリスム」と呼ばれており、フランドル(ベルギー)やオランダの17世紀絵画に影響を与え、「テネブロージ」(闇の画家)と呼ばれる一派を生み出した。オランダのユトレスト出身のホントホルストや、アムスタルダム出身のラストマンがそうだ。かれらは、いずれも1600年代初頭にローマに留学しており、そこでカラヴァッジョ主義の洗礼を受けている。
 ちなみにラストマンは、帰国後の1624年に弟子をとっているが、それが18歳の若きレンブラントである。周知のように、レンブラントの後年の作品、『エマウスの食事』や『ペテロの否認』には、宗教的意識を強い明暗のコントラストで劇的に表現するこの種の手法が活かされている。では、こうしたカラヴァッジョやレンブラントのライティングが、さながら演劇のスポットライトの役割をしているとしたら、ラ・トゥールはどうだろうか。

 カラヴァッジョの光は、まずその人物を暗闇から引き離そうとする。だが、ラ・トゥールの描くのは暗闇ではなく、夜なのである。それは地上に広がる夜、平和な神秘のいにしえからのかたちだ。ラ・トゥールの人物たちは孤立してはいない。彼らはその夜から流れでたものたちである。夜は、天使と呼ばれる娘のかたちをとったり、女たちの幻影のかたちになったり、またその夜を乱さぬようまっすぐ燃えている松明や燈火の烙のかたちをとったりする。世界はあたかも夜警の角燈のしたに、動かぬ人の姿が徐々に浮び上ってくる古代の眠る兵士たち、その上に無限にひろがる夜に似てくる。人々の寄りつどう闇のなかで、燈火はしずかに点ぜられる。そしてそこから幼児を囲む羊飼いたちが現われ、誕生図のゆらぐ烙は地の果てまでひろがっている。・・・・・・このような広大無辺の神秘な沈黙を、どのような画家も、レンブラントでさえも暗示してはいない。ラ・トゥールこそは、しずもれる闇の領分の唯一の解釈者である。
 彼はそのもっとも美しい作品のなかで、この夜にぴったりと適った人間のかたちを発明している。彼が到達したのは彫刻(la sculpture)ではなく、立像(la statue)である。『聖女イレーヌに嘆かれる聖セバスチャン』の女たちも、『囚われ人』の女も、夜の立像(statues nocturnes)となっている。というのは、それは重さによってでなく、動かざる古代風の形姿を通じて現れたのであり、遠方からきたのではなく、まどろめる大地から、憐れみのパラスのように現れたからである(14)。

 マルローの眼から見たラ・トゥール的な夜は、「平和な神秘のいにしえからのかたち」であって、もはやシャールにおけるような占領下の暗闇ではない。それは「広大無辺の神秘な沈黙」であって、そのような平安に満ちた無窮の時間が擬人化された形象こそ、『囚われ人』の女性なのである。彼女は「夜の立像」であると言われているが、それと関連づけられている「パラス」( Pallas )というのは、アテナ女神の呼称の一つである。「パラディオン」( Palladion )といえば、パラス・アテナ( Pallas Athena )の像を指すが、これはトロイアの建設者イロスの祈りにこたえてゼウスが天より下したものであり, この像が存するかぎりトロイアの安全は保証されるという守護神的な役割を持っていた。そのため、トロイア戦争が起きるとオデュッセウスとディオメデスに盗み出され、戦争が終わってからギリシアへ運ばれたとされている。
 したがって、マルローが強調しているのは、カラヴァッジョ的な明暗法の持つ近代性にたいする、ラ・トゥール的な夜景画の古代性であり、前者のセノグラフィのダイナミズムにたいする、後者の沈黙した立像の不動性、その安定した実在性そのものである。マルローが「彫刻」という語彙を避けた理由には、さきに触れたようなキュビスムを思わせる構成的な人物描写とともに、おそらく語源的な意識もあるだろう。《 sculpture 》の語源のラテン語の動詞は、《 sculpere 》すなわち「彫る」「刻む」であるが、立像すなわち《statue》の語源は、ラテン語では《 statuere 》、すなわち「建てる」「創立する」「決定する」なのだ。このように、マルローにおいては、『囚われ人』の聖書的な意味や、女性=天使の解放者という役割は背後に後退し、救済の瞬間の演劇化よりも、宇宙論的な沈黙と女性との一体化が強調されている。彼女はシャール的な光輝く御言葉の運び手というよりも、まさに「暁」にたいしての「夜」という「沈黙の声」そのものが受肉化された図像なのである。
 シャールとマルローの眼差しを比較したとき、夜景画の背景の暗部をめぐる両者の解釈が対照的なのは、彼らの文学的資質によると同時に、戦中と戦後という社会状況の相違もあるかもしれない。だが、ふたりのラ・トゥール論は、そのようなコントラストを見せながらも、画面の女性に一定の肯定的な価値を付与しているという点では、視点を共有していると言ってよい。たとえばシャールは、「女は解き明かし、幽閉された男は聴き入っている」と書いていたように、ともすれば断続的な失語状態に陥る詩的言語を励起しうる救済者としての役割を彼女に与えていた。マルローにあっては、『囚われ人』の人物たちは、その存在の起源において「夜から流れでたものたち」であるという意味において、決して互いに「孤立してはいない」。「憐れみのパラスのように現れた」その婦人は、ラ・トゥールの「もっとも美しい作品のなかで」建立された、「この夜にぴったりと適った人間のかたち」である。彼女は「平和な神秘の、いにしえからのかたち」たる夜のなかへと老人を連れ還る役割を持っている。だから、彼らの初源的なコミュニケーションにはもはや発話の必要はないのだ。
 実際、「憐れみ」pitié というマルローの言葉に導かれて、ラ・トゥールの画面に目を向けた観客は、老人に注がれた女性の表情に、聖セバスチャンを見守るイレーネだけでなく、瞑想するマグダラのマリアを描いた一連の作品や、キリストの生誕図を思い浮かべるかもしれない。だが、思い出してみよう、ラ・トゥールという画家には、裕福な青年を女性のスリたちが取り囲む『女占い師』や、青年貴族を騙そうとするトランプゲームの場面を描いた『いかさまカルタ』といった作品もあったことを。女主人に葡萄酒の杯を手渡しつつ、相手の札の情報を示唆しようとしているあの召使の女性の横顔を、『囚われ人』の女性の表情から決定的に区別しうる根拠は、果たして画面のどこに存在するのだろうか。

2

 ラ・トゥールをめぐる第2回目の大規模な展覧会が開催されたのは、マルローの著作からほぼ20年後、会場はふたたびパリのオランジュリー美術館である。この1972年の展覧会は、ラ・トゥールを単独で取り上げた史上初の展覧会なのだが、奇妙なことにそのカタログには、シャールにとってのラ・トゥール体験の核心とも言うべき『囚われ人』の題名は見当たらない。では、この絵は別の画家の作品だということが判明して、帰属先が変更されてしまったとでもいうのだろうか?
 なるほど、ラ・トゥールというのは数世紀も忘却の闇に沈んでいた画家である。ようやく再発見される1910年代までは、彼は有名な18世紀のパステル画家、モーリス・カンタン・ド・ラ・トゥールという全くの別人と混同されていたほどなのだ。けれども、『囚われ人』という作品が、その題名の指示する主題の意味内容を保持したまま、第三者の作に帰されるだけならば、事態はそれほど厄介ではない。ステルラン、シャール、マルローたちの提起した解釈は、宗教性の密度に多少の差はあるとしても、束縛されている人間を解き放つ到来者という物語論的な構造の共有において、美学的な妥当性を保有しているからである。問題がそれほど単純でないのは、この作品が『囚われ人』とはまったく別の聖書の場面を描いた絵として、別の題名のもとに同カタログに再登録されているからだ。ローゼンベルクとテュイリエの編集によるカタログから、解説文を引用してみよう。

 最も確からしいと思われる仮説は、同作に「妻に嘲られるヨブ」の場面を認めるもので、ジャン・ラフォン(1935年)とロノー博士(1935年、フィリップ、『ロレーヌ地方』、p.318)が提出し、ワイズバッハ(1936年)によって繰り返された仮説である。この仮説は、ユダヤ人の老人の横顔と、彼の肉体的な不遇の説明になっている。[・・・] もしかするとこの仮説のおかげで、この絵の唯一の付属物、つまり地面に置かれている割れた椀のことも理解できるかもしれない。その椀の本当の形は、最近なされた修復作業によって発見されたばかりだが、その形態は聖書の一節を連想させうるものだ。「神はヨブを頭のてっぺんから、足の裏まで、ひどい皮膚病にかからせた。ヨブは素焼きのかけら( un tesson )を取ると、体をかきむしり、灰のなかに座した」(15)。

 末尾で引用されている一節、「神はヨブを頭のてっぺんから、足の裏まで、ひどい皮膚病にかからせた [・・・]」は、旧約聖書の『ヨブ記』第2章第7-8節である。周知のように、『ヨブ記』は、神がヨブという信心深い男を悪魔の手ににゆだねて、さまざまな試練を与える物語である。裕福だったヨブは、略奪や災害のために何千頭もの家畜や、七人の息子、三人の娘まで失ってしまう。悪魔はさらにヨブ自身を皮膚病に罹らせるが、なおも神への信仰を棄てない彼を見て、ヨブの妻はつぎのような態度に出るのだ。
 
 サタンはヨブに手を下し、頭のてっぺんから足の裏までひどい皮膚病にかからせた。ヨブは灰の中に座り、素焼きのかけらで体中をかきむしった。彼の妻は、「どこまでも無垢でいるのですか。神を呪って死んだほうがましでしょう」と言ったが、ヨブは答えた。「おまえまで愚かなことをいうのか。わたしたちは神から幸福をいただいたのだから、不幸もいただこうではないか」。このようになっても、彼は唇をもって罪を犯すことをしなかった(16)。 

 妻がヨブをなじるときの「呪う」(ヘブル語ではb—er—ek)という動詞は、悪魔がヨブを病気にしてみろと神をそそのかすときに言う、「彼は面と向かってあなたを呪うにちがいありません」という動詞と同じものだ。その意味で、ヨブをなじる妻の言葉は、悪魔による冒犢への誘いと呼応しているのである。いっぽう、ヨブ自身はいかなる冒犢的な言辞をも吐こうとしない。
 ラ・トゥールの絵にこの『ヨブ記』の主題を読み取ろうとする解釈は、すでに大戦前の30年代に提起されていたにもかかわらず、公式には採用されてこなかった。その最大の理由は、前節で見たように、34年の展覧会の時点では、老人の足下の品物が、「それは欠けた小鉢かもしれないが、もしかすると、鉄で作られた大きな足輪かもしれない」というように、実証的に判明していなかったからだろう。ところが、72年の展覧会カタログには、「その椀の本当の形は、最近なされた修復作業によって発見されたばかり」だと記されている。「最近なされた」recenteという形容詞や、「したばかりだ」という近接過去の動詞《vient de》の用法からは、展覧会以前のさほど遠からぬ時点で修復作業が行われたことが分かる。ちなみに、編集者のひとりローゼンベルクは、展覧会の翌年に、フランソワ・マセ・ド・レピネとの共著を出しているが、そのなかで『妻に嘲られるヨブ』を解説している頁に、修復作業の実施された事実がコメントされている(17)。
 かくして、72年前後には、老人の足もとのオブジェは「大きな足輪」( un gros anneau )ではなく、「割れた椀」(le bol brisé)らしいことが明らかになった。そしてその品物が、皮膚病のヨブが体を掻きむしるのに使った「素焼きのかけら」( tesson )に結びつきうるという理由から、30年代のラフォンたちの仮説が再浮上したことになる。つまり、この場面は、天使による使徒の救出・解放ではなく、神の試練に耐えている義人と彼をなじる妻という、聖と俗の対立を描いた、宗教的葛藤のシーンなのだ。とすれば、画面のなかの女性は、皮肉なことに、シャール的な救済者とは180゜逆の役割を持っていたということになる。 
 テュイリエたちの解説によれば、この主題は、『人に似せし救霊の似姿』( Speculum Humanae Savationis )や、『貧者の聖書』といった書物によって、中世から頻繁にとりあげられており、16世紀・17世紀にもよく知られていたという。伝統的に、ヨブの姿はこのラ・トゥールの絵のような裸身で描かれてきた。なるほど、図像学的に言えば、聖ペテロがほとんど裸身に近い姿で描かれる必然性は、『使徒行伝』の文脈には存在しないが、画面の男性がヨブであれば、皮膚病というれっきとした理由があるのだ。
 『ヨブ記』をこの作品の主題と見なす解釈は、のちにグラン・パレで97年に開催される第三回目の展覧会でも踏襲されている。その公式カタログの説明には、「この場面を妻に嘲られるヨブだと同定する解釈は、1935年に提起されたが、おおむね確信を得てきたといえる。地面のうえの縁の欠けた椀は、素焼きのかけらを暗示しているのかもしれない。聖書によると、神は老人を潰瘍にかからせて苦しめたが、その潰瘍を掻くのに老人は素焼きのかけらを用いたのである」(18)と記されているからである。言い換えれば、70年代から現在にいたるまで、『妻に嘲られるヨブ』という題名は、最も広く人口に膾炙してきた見解だと考えてよい。
 たとえば、哲学者のミシェル・セールの代表作である「ヘルメス」シリーズ全5巻のなかには、「翻訳」をテーマにした巻があるが、その第3巻には「ラ・トゥールはパスカルを翻訳する」というラ・トゥール論が含まれている。これは72年のグラン・パレでの展覧会を観覧して書かれた論考であり、セールも問題のラ・トゥールの作品に関しては、「ヨブ」の主題を認めるという立場を採用している。
 ただし厳密に言えば、セールもまた、ヨブの妻からヨブに向けての言説は、「すべての女から、不幸をかこつすべての男に向けての言説だ。典拠がヨブ記であるかどうかは重要ではない。不幸な男はすべてヨブなのであって、原典などなくてもかまわない」(19)と述べているように、絵画のなかに「ヨブ」の場面の構造を認めながらも、それをキリスト教の文脈内部には全的に還元しない。この論考の特徴は、むしろ普遍的な次元で、被害者意識に固有の自己中心性を浮き彫りにしようとしている点にある。とくに、セールがヨブの妻の側に立ち、「あなたは世界をあなたの苦悩のそばに引きとめたがっている。自分が世界の中心だと思っている。根源的な問いを出すのは自分だけだと思っている。言説を超越したのは自分だけだと思っている」(20)というように、2人称でヨブ=読者に向かって直接語り書けている話法が、なんといっても目を引く個所である。
 ここで妻=セールの側から告発されているのは、信仰の主体におけるナルシシズムである。自己崇高化的な言説の主体は、自らだけが形而上学的な真理に準拠して、世界を高みから根源的に把握しきっていると信じている。この超越性、垂直性のベクトルが、ときとして宗教的禁欲の果てに自己破壊のタナトスにまで向かうのにたいして、彼の伴侶が突きつけるのは、世俗的な水平性としての社会性の論理、メタレベルなき生の世界の倫理である。「服を着なさい。[・・・]。私たちが裸をさらすとしたら、それは乳をやるためか、蚤を探すため、出産するため。あなたたちときたら、いつだって怒鳴り声か鞭打ちのため。私たちは生命のため、あなたたちは死のため。もうたくさん」(21)。
 われわれにとって興味深いのは、その言説が「男性」と「女性」という性差の観点から組み立てられていることである。直前に引用した一節では、「私たち」( nous )も「あなたたち」( vous ) も、それぞれ人称代名詞が複数形になっている点に注意を喚起しておこう。存在のコナトゥスを肯定する女性たちと、その力を否定して自己破壊的なタナトスに身をゆだねる男性たちとが対比されているからである。また、女性たちが裸になるのは「蚤を探すため」とあるが、おそらくセールはラ・トゥールの『蚤をとる女』( La Femme à la puce )を念頭においている。ロレーヌ歴史美術館蔵のこの作品は、ヨブの絵との類似性が色彩や構図の面でも指摘されている一枚である。当時のリュネヴィルの農婦か召使をモデルにした『蚤をとる女』は、地方の世俗的な雰囲気を濃く漂わせており、夜景画以前のラ・トゥールの初期の作風にも、これと通じるものがある。
 セールによれば、ヨブの妻の持つ一種の現実主義、現実感覚は、信仰者の自己陶酔的なモノローグを、他者とのコミュニケーションへ向けて解体する契機となっている。「女はその身振りによってこれほどまでに自己満足している言説を消し去ってしまう」(22)。このような他者との交流において重要なのは、自然界と同次元で感情の論理を樹立した『エチカ』のように、「スピノザの叡知、すなわち落下する石の自然法則であり、 伝達可能な真の善の探求であり、私的な自己同一性の忘却である」(23)というのが、セールの主張なのだ。
 『妻に嘲られるヨブ』に関する議論は、同論考のなかでは一個の独立した章を構成しており、「男性的なもの、女性的なもの」という章題を与えられている。しかも、ここで強調されている「女性性」( la feminité )という概念は、セールの論考の「ラ・トゥールはパスカルを翻訳する」という題名に反して、パスカルの思想体系から「翻訳」されたものではない。セールは、単に男と女という区別を立てただけでは意味がないとして、「重要なのは女性性である。女性性はパスカルには見られないし、当時の著作家の場合にも登場することはごく稀である」(24)と語ったうえで、こう続けている、「女性性はラ・トゥールに、そしてたぶんコルネイユに特有のことなのである。男は生まれつき無邪気にできているようで、まだ完全には幼児期から抜けきっていない。女はこういった直接性からは、ずれたところにいる。男ほど騙されやすくなく、もっと抜け目がなく、身を守るすべも心得ている。[・・・] 彼女は老人には頭ひとつぶん、ヨブには胸からうえのぶん、セバスチャンには体ひとつぶん、みどり児には前世ぶんだけの差をつけて、彼らを見下ろしていてる」(25)。
 じつのところ、こうした「女性性」の問題系は、セールのラ・トゥール論全体の主題だといっても過言ではない。なにしろセールは、《ラ・トゥール》という固有名詞を、普通名詞かつ女性名詞である「塔」( la tour ) とかけて(26)、その建築的な形象の安定性・不動性における「存在の連鎖」についての議論を展開しているくらいなのだ。しかし、いっぽうでセールの解釈にはいささか牽強付会と見られる部分がないわけでもない。彼のラ・トゥール論の前提は、「典拠がヨブ記であるかどうかは重要ではない」とする立場ではあるが、もし旧約的な文脈を一般的な地平において拡大解釈するのであれば、画面のなかにそれなりの視覚的な根拠を見出さなければならないだろう。だが、絵を見る主体は誰しも純粋視線のような存在ではなく、視るという行為の半透明な厚みのなかにつねに捉えられている。その意味において、ここではセールが初期の農婦像(サンフランシスコのファイン・アート・ミュージアム所蔵)に言及しているつぎの一節から、問題となる点をふたつとりあげることにする。

  彼女は直立している。彼女もまた、三角錐のなかに、ほとんど同じ三角錐の真ん中にいるが、彼女は力強く、たくましく直立している。転落がこようが、苦悩や老いが来ようが、彼女はそこに根を生やしたように立ち、陶器の破片を手にした老ヨブを慰めるか、嘲笑しようとするであろう( pour consoler le vieux Job au tesson ou se moquer de lui )。(27)

 第一に、解釈の転換のきっかけとなった「素焼きのかけら」( tesson )についてだが、この一節でセールは「陶器の破片を手にした老ヨブ」と書いている。哲学者の視線は、ここではラ・トゥールの画面を離れてしまい、彼が重要視していなかったはずの聖書の物語へと逆に引き寄せられているとは言えないだろうか。じっさい、画面には扇型にかけた破片の部分は見あたらないし、老人の両手は祈るように組まれていて、どんな品物も持っていないからである。くわえて言えば、1973年の共著におけるローゼンベルクとマセ・ド・レピネも指摘していたことだが、『ヨブ記』の第7章第4-5節には、ヨブが自らの病状を嘆く一節として、「横たわればいつ起き上がれるのかと思い、夜の長さに倦み、いらだって夜明けを待つ。肉は蛆虫とかさぶたに覆われ、皮膚は割れ、膿がでている」とあるにもかかわらず、「しかしながら、正直に認めざるを得ないが、それらの潰瘍は見当たらないのである」(28)。
 ここで、ヨブが罹ったという皮膚病のことについて、いったん聖書の記述を振り返っておこう。たとえば、『ヨブ記』の第2章8節には、病気を患った義人が「灰のなかに座した」という記述があるが、これはいかなる理由からなのだろうか。ヨブが兄弟や親類たちの共同体から排除され、塵捨て場の灰のなかに寝起きしていたということは、この病が伝染性のものだからだと解釈することもできそうである。
 旧約の世界における皮膚病については、『レヴィ記』第13章にやけどや白癬、湿疹など、さまざまな症状の分類とその手当ての詳細な記述がなされている。いずれの場合も、重度の皮膚病のときは、患者は衣服をさき、髪をほどき、「私は汚れた者です」と自ら呼ばわらなければならない。そして「その人は独りで宿営の外にすまねばならない」(第13章46節)と『レヴィ記』は規定している。
 現代仏語訳の『ヨブ記』でも、ヨブの病は《 une lèpre maligne 》すなわち「悪性の癩病」として訳しているが、その仏訳者も、同個所への註においては、「他の翻訳には、《 inflammation mauvaise 》つまり悪性の炎症とある。おそらくここで問題になっているのは、熱帯性の皮膚病であって、いわゆる癩とは別のものかもしれない」(29)と記している。また、『ヨブ記』に出てくる「ひどい皮膚病」という表現の原語は、ヘブル語で《 sehin ra’ 》だが、旧約には「癩病」を表わす別な語、《 sara’at 》が見られるという浅野順一の指摘もある(30)。ヨブの病名を厳密に判定することはできないが、少なくともそれが上記のような種類の皮膚病であるかぎり、描写の対象となる可視的な症候が存在すると思われる所以である。
 ここでセールのラ・トゥール解釈に戻って、考察すべき第二の点をとりあげよう。問題は、セールの目から見たヨブの妻のイメージが二極に分裂している点である。すなわち、先の一節において、「老ヨブを慰めるか、嘲笑しようとする」とあったように、いっぽうには不運な受難者を慰める聖母のような女性がおり、もういっぽうには盲信的な教徒を笑いとばすたくましい農婦がいるのである。この二重性をよりよく浮き彫りにするために、小説家のパスカル・キニャールがこの画家に捧げた『夜と沈黙』というエッセイをとりあげて、それぞれの記述を比較してみよう。
 『夜と沈黙』が発表されたのは、セールの著作からほぼ20年後のことになるが、ラ・トゥールの絵の主題に関してはキニャールも、「エピナルでは、それじたいが曖昧な『ヨブ』『妻にののしられるヨブ』と名づけられた絵が見られる。このタイトルは確実からはほど遠い。おそらく別の場面なのかもしれない」(31)として判断を保留している。『夜と沈黙』がわれわれの関心を惹くのは、キニャールが小説家らしく画面の女性の様子を生彩に描写しはじめる瞬間である。

 どんな女もマリアである。どんな女もヨブの妻である。これは身体をかがめた大きな人物像だ。彼女はセイレーンだ。あるいはテバイのスフィンクスだ。夢の中でボッカチオのベッドの上に現れ、彼をたじろがさせたあと、慰めをもたらす「フィロソフィア」のようだ。彼女は赤い衣をまとい、糊が効いてきれいに折り目のついた素地の前掛けに、白いカフス、白いケープ、白いターバンをつけている。ゆったりした衣服の様子や、首をキャンパスの縁にぶつけたかたちで低くかがめている姿勢のせいで、その身体は「あまりにも大きく」見える特徴をしている。それはほとんど超人間のようだ。鼻の穴はつんとすまして、口もとには尊大な雰囲気をたたえ、手はたえず指を開いたり閉じたりして、ごたごたと文句をこねている。目は真正面から見据えている。これは終わりのない争いだ。支配する女神と、屈服する病気の男。(32)

 キニャールも、「どんな女もマリアである。どんな女もヨブの妻である」と述べているが、それはセールの立場と異なって、あくまで議論の前提となる一般論にとどまっている。具体的に画面に沿って女性の様相を叙述しはじめるや、小説家は何よりもヨブの妻の身体的な大きさを強調する(「大きな人物の像」、「あまりにも大きく」)。この身体的特徴は、構図に関する美学的観点(「首をキャンパスの縁にぶつけたかたちで低くかがめている姿勢」)からは、それ以上詳しく分析されることはない。キニャールの関心は、むしろその人物の象徴的意味の解釈学 (「ほとんど超人間」、「支配する女神」)へと向けられている。
 こうした文脈において描写される女性の表情は、「鼻の穴はつんとすまして、口もとには尊大な雰囲気をたたえ、手はたえず指を開いたり閉じたりして、ごたごたと文句をこねる」とあるように、「マリア」的な慈愛からはほど遠い。むしろ、この女性の「目は真正面から見据えている」とあるように、キニャールが画面に見出しているのは男女の葛藤・対決という構図である。かくして、この作品の光景全体は、「終わりのない争い」として結論づけられることになる。
 いっぽう、セール自身は画面の女性の表情に関する具体的な描写はしていない。むしろセールのラ・トゥール論は、「女は子宮という中心を持っているから安定している」(33)といった原理を立てて、そこから演繹的に考察を行っているように思われる。この性差に関する原理は、ラ・トゥールにおける明暗法についての解釈にまで波及しており、セールはつぎのようにさえ書いているほどである。「ラ・トゥールにあっては、ヨセフとか神の子といった例外を除けば、女たちだけに明かりを手にする資格があると考えられているのだ」(34)。しかしながら、よく知られているように、ラ・トゥールの夜景画において灯を手にしているのは、少年の従僕だったり(『ランプを吹く少年』『煙管を吹く少年』)、ユダとキリストを売買する男(『支払われた貨幣』)だったりすることもあるのだ。セールは初期のラ・トゥールの世俗画も射程に入れて議論しているのだから、光明の導入者としての女性を特権化するあまり、これら後期の世俗画を例外として捨象してしまうのはいささか無理があるのではないか。
 ともあれ、この「表情」という主観的な指標ほど、眼差し自身の厚みに左右されるものもないだろう。たとえば、72年の展覧会の段階で、テュイリエたちは、「この絵画はあらゆる点で例外的である」(35)として、『ヨブ記』説につぎのような問題点が残されていることを慎重に指摘していた。まず第1点は、聖書のテキストで、伝統的に重要な位置をしめている、ヨブと3人の友人との対話という場面が選ばれていないこと。第2点は、ここでヨブと妻の対話の場面が選ばれているとしても、しかしそれが夜という時間帯に設定されているのは、美術史的に先例がないこと。そして、これが最も重要な点であるが、第3点として、ヨブをなじっているはずの妻の表情に、嘲りの感情が表出されているように見えないことである。これはキニャールの受けた印象とまったく異なるものだ。

 その女性の表情からは、どんな嘲りも取り去られている。がみがみ言う女の辛辣さや、「神を呪って、死んだほうがましです」と叫ぶ「気のおかしくなった女」の怒りなどより、ここには、心身ともに悲惨な境遇と、神の呪いと、神から見放された孤独といったものに遭遇した、純朴な魂が認められる。彼女は驚き、眉をひそめて、反抗を説き進めている。だが、苦しみの極みにある男は、神を信頼し信仰をもち続ける。人の世の不遇をめぐる瞑想と、『忍耐の鑑』(exemplum patientiae) はここではその頂点のひとつにまで到達している(36)。

 「純朴な魂」という表現にもあるように、彼女は誘惑者たる悪魔とは対極的な性格の持ち主とみなされている。とはいえ、その妻の顔から「どんな嘲りも取り去られている」(dénuée de toute raillerie)としたら、作品の題名を『妻に嘲られるヨブ』(Job raillé par sa femme)と命名するのは、いかにも自己撞着的だろう。だがしかし、その矛盾にこそラ・トゥールの作品の独自性があるとしたら?
 女の表情に関するこうした印象は、97年のグラン・パレの展覧会カタログにも、つぎのような記述のかたちで引き継がれている。「それでも依然として、こうした主題の扱い方はまったくの例外的(exceptionnel)なものであるように思われるし、ヨブの配偶者の相対的な年齢の若さや、どんな嘲りも怒りも(toute raillerie ou fureur)見当たらない彼女の表情には驚かされる」(37)。
 さらには、それと関連して、地面の陶器をめぐっても、グラン・パレのカタログでは、或る意味で判断保留の安全装置がかけられていたことも附記しておかねばなるまい。さきほど紹介した、「地面のうえの縁の欠けた椀は、素焼きのかけらを暗示しているのかもしれない(le bol ébréché, au sol, pourrait être une allusion au tesson)」(38)という叙述は、「素焼きのかけら」じたいが画面に不在であるため、「暗示」allusion という語によって判断にワン・クッション、留保をおいている。そればかりか、「これは・・・の暗示である」という断定さえせずに、推量の意味の助動詞pouvoir を挟みこんで、直説法ではなく条件法にするという、二重、三重にわたる念の入れようだったのである。


3

 このように見てくると、冒頭で触れた『砂漠のヨハネ』におとらず、『囚われ人』=『妻に嘲られるヨブ』をめぐる解釈の地平もまた、流動的で曖昧なゾーンを残していると言わざるをえない。キニャールが見てとったように、画面のふたりは終わりのない争いをしているようにも見える。超越的な絶対者の正義を信じる男と、そのような信仰の意味がもつ崇高さを理解できない、現実主義的な女。しかし、それ同時に、もうひとつ、この絵を見るわれわれ観客のあいだにも、終わりのない解釈の争いがあるのだ。
 天使のごとき救済者か、ソクラテスの悪妻にも似た、ヨブの妻か。男たち、詩人たち、哲学者たち、宗教学者たち、美術鑑定家たちは、このオルターナティヴのあいだで揺れ動き続けてきた。問題の核心は、そのような男たちの目から見た「ヨブの妻」の居場所、とでもいうべきものである。実証的な発見がもたらしたタイトルの変更にもかかわらず、ある意味で、彼女自身は依然として、自らの場処を奪われたままなのではないだろうか。というのは、思想史の空間においてさえも、この「ヨブの妻」的な存在にたいする「美学的障害」のような理論的抵抗があるようにも思われるからである。
 たとえば、この物語についての思想史的な研究を行っている有名な著作に、ユングの『ヨブへの答え』がある。ユングの議論の眼目は、ヤハウェ自身が、ヨブをその手に委ねた悪魔と分身的な関係にあり、そのような自己矛盾を抱えた存在であるヤハウェを、ヨブの倫理的な意識の高さが凌駕しているという主張にある。ヤハウェは全知である以上、ヨブが苦難にあっても神に背くかどうかは最初に予見できたはずだ。にもかかわらず、神はたやすくサタンの唆しに乗って、ヨブをその手にゆだねてしまう。その結果、神は曠野のヨブから正義をめぐっての呼びかけを受けるのだが、ヨブからの「なぜ」という問いには、直接的な答えを返そうとしない。そのかわりに神がしたことはと言えば、ビヒモスのような怪物まで創造した自らの超人的な力をデモンストレーションすることだけである。
 「神は正しくあろうとは少しも思わず、むしろ自らの力を誇示して、それを正義に優先させている」(39)。ユングの解釈によれば、そうした力の誇示は、ヨブにたいしてなされるのではない。ヤハウェは自らが全知全能の唯一者であることを十全に知っているはずだし、ヨブ自身もまた、おのれの身が塵にひとしきことをわきまえており、決して神と同列に並ぼうとして神を呼ばわっているのではない。ヤハウェが自らの力を総動員してまで説き伏せようとしているのは、現に目の前にひれ伏している人間ではなく、神自身のなかの暗黒の部分、つまり、神の内面的な分身としてのサタンにほかならないとユングは考える。神がその影響力を恐れ、ぜがひでも封じ込めようと抑圧する対象は、神自身の無意識にほかならないのである。
 ユングの分析は傾聴に値するが、この心理学者の眼差しはもっぱら、ヨブと対決する神に注がれており、旧約聖書における神のシンボル化の過程を検討することに頁が割かれている。ユングの関心は、言ってみれば、キリストとアンチキリストの二重性という心的原型を浮かび上がらせることであり、そこでは人間と神の対決・対峙という構図が特権化されることになる。しかし、その結果として、対峙の構図の周縁に位置するヨブの妻という存在は、まったくユングの視界に入ってはこない。 
 また、フランス語で書かれたヨブ解釈として、フィリップ・ヌモによる刺激的な著作、『ヨブと悪の過剰』がある。ヌモの考究している対象は、ユングとはかわって、ヨブと友人たちと神という三つの視点のあいだに展開される言説の構造である。ヌモによれば、『ヨブ記』は司法的な構図を超越した彼方において、つまり通常の意味での裁判官や被告人や検事が不在であるような正義の場として、超越的な場の可能性を示しているテクストだとされる。そこで最後にヨブへと与えられる答えは、したがって、ユング的な「ヨブへの答え」とはまた違った意味づけを帯びる。
 ヌモの議論の要諦は、ヨブが「なぜ善ではなく悪があるのか」という認識論的な問いへの解答を放棄し、友人たちとの答弁とは別のタイプの答えに関心を移したことである。それは、「何を目指して?」en vue du quoi という問いに対応する答えである。この「何を目指して?」という意欲、意図、意志に関る問いへの答えは、世界の存在のありかたとは独立したかたちでヨブの実存を活動させるものであり、しかも彼の実存をして世界とその法にたいする至上の無関心の状態にするような答えなのである。
 言い換えれば、ヨブに与えられた答えは、神の意図そのものにほかならない。ヨブの意図が神の意図と合致することが重要なのであり、ヨブの過去の振るまいが、法に照らしたとき、善か悪かは重要ではないのである。問題になっている意図(Intention)のことをヌモはこう説明している。すなわち、「自分が今後は罪を犯さないという意志、永久に悪と戦う意志、人生そのものの方向をこの悪という過剰性との戦いに向けるという意志を持っていると分かった」(40)ということである。このような純粋無垢な意図、純粋な善への志向性こそ、「何を目指して?」の答えに対応する、宗教的意識の根源的なベクトルなのだ。以上のようなヌモの議論は、ヨブと神にくわえて三人の友人たちの言説も射程範囲に収めているが、そこには、ラ・トゥールにおけるようなヨブと妻の対峙がクローズアップされる契機は、依然として含まれていない。思想家=男性たちのディスクールのなかには、いずれも彼女の正当な場処が存在しないのである(41)。
 ちなみにヌモの著書には、その初版が出た時点で、哲学者のエマニュエル・レヴィナスが、「超越性と悪」という論文を後書きとして寄せている。その論文のなかで、レヴィナスはつぎのように語っていた。「きわめて顕著なこととして、過剰という概念における、純粋に量的なものは、悪の周縁性(la malginalité du mal)に特有の質的な内容のかたちをかりて、現象の通性原理[訳注 : ものの本質を構成するもの。「何性」。クイディータス]として現れてくる。悪の現出においては、その初源的な現象性において、その特質において、ひとつの様態(modalité)、ひとつの様式が兆している。すなわち、いかなる=場をも=見つけることも=ない(le ne-pas-trouver-de-place)ということであり、〜とのどんな和解をも拒否するということであり、反-自然、怪物性である。それは、本質的に、秩序を乱す、よそよそしいものである。しかもそれは、こうした意味における超越性である」(42)。量的ではなく質的な周縁性という意味で「過剰」であるような悪は、その初現的な現れかたのうちに超越性を兆しているのである。
 では、ヨブの妻とは、サタンのごとき過剰な悪の存在なのだろうか。たしかに彼女は『ヨブ記』というドラマにおいては徹底した「周縁性」を体現しており、その意味では物語論的な超越性を帯びているようにすら見える。かりに超越者が名付けられえない存在であるとするなら、そのかぎりでの彼女はたしかに超越者であろう。ヨブの引き立て役に過ぎないかに見える友人のエリファズ、ビルダド、ツォファルらの固有名さえ、最終章の第42章第9節で再度テクストに登場している。彼らは物語の結末で下される神の審判においては、償いの牡牛と牡羊を7頭捧げるよう命じられるのだ。「わたしはおまえとおまえのふたりの友人に向かって怒っている」(第42章第7節)とは、神から友人たちのうちのひとり、エリファズにたいする言葉である。ところが、神のくだす最後の判決は、ヨブの妻については一言も言及していない。『ヨブ記』において、最も直接的に神を冒涜している唯一の存在である妻が、絶対者の制裁を超越しているのである。
 『ヨブ記』の結びは、主人公の家族や財産の回復状況について、家畜の数を挙げ、新しく生まれた三人の娘たちの名前を挙げつつ、彼女らはその美貌でひときわ有名だったとしめくくっている。三人の娘達は、「エミマ」、「ケジア」、「ケレン・ハップク」と呼ばれているが、これにはそれぞれ意味がある。「エミマ」は鳩の意味、「ケジア」は香り高いことで有名なカシア桂皮、そして「ケレン・ハップク」は瞼を黒くする化粧に用いられるアンチモニの角の意味である。ヨブの妻の名前は、物語の全編を通じて一度も現れないばかりか、彼女は冒頭の第2章で信心深い夫をなじった後、垂直への超越ではなく、水平への準超越とでも言うべきかたちで、この長大なテクストからぷっつりと姿を消してしまう。マージナルな存在である彼女は、テクストのなかに、テクストへの注釈の中に、ユングたちのディスクールのなかに、「どんな=場を=見つけることも=ない」のである。


4

 ラ・トゥールの伝記作者アンヌ・ランボールは、画家が住んでいたリュネヴィルを戦禍や伝染病などが襲った、1635年から38年にかけての期間のことを、「ヨブの徴のもとに」(43)あった時期と名付けている。ラ・トゥールの妻ディアーヌについては、ほとんど個人的な特徴を伝える資料は残っていない。かろうじて知られているのは、ラ・トゥール夫妻が1619年に長男フィリップをもうけてから、34年に末娘のマドレーヌが生まれるまで、合計9人の子をなしたにもかかわらず、48年まで生きていた子供はたった3人しかいなかったということである。36年5月から9月にかけてはペストが猛威をふるい、ヴィックで石工をしていたラ・トゥールの弟や、ラトゥールの弟子も亡くなっている。さらに追い打ちをかけるように、38年にはリュネヴィルの城壁の攻防をめぐってふたたび戦乱が起こり、町の炎上する灯で、近郊の坂道では本を読むことすらできたと言われている。荒廃した町にはわずか30世帯ほどが残り、道端には野獣がさまよい、狼は死体を掘り返し、人間は隣人に殺されて食われるのを待つといった惨状であった。 
 ともあれ、ラ・トゥールの絵に現れている女性が誰であるにせよ、彼女が蝋燭をもって男のもとを訪れたとき、初めて男は彼女の姿を見ることができたわけである。しかし、彼女がその場を引き下がってしまえば、彼は彼女の姿はおろか、室内の様子も、自らの体もまた闇に包まれてしまう。それは画家にとって、また観客にとっても、当の場面を見ることができないということを意味している。このような闇の中における光がもたらす可視と不可視について考えたとき、この画家の作品群においては、初期から後期をつうじてつねに、視覚の存立構制にたいする根強い関心が認められるとは言えないだろうか。
 まずその例として、初期の1620年代に制作されたとされる聖人像のシリーズのなかに、『聖ヒエロニムス』を描いた作品がある。そこでは、聖人が眼鏡を手にとって、それを手にしたままレンズを通して書物を読む場面が選ばれている。ヒエロニムスは4世紀後半の 聖書学者であるが、教会公認訳となる聖書のラテン語訳(ウルガタ)を完成したことで知られる教父である。眼鏡で書物を読むモチーフは、すでにカラヴァッジョの同聖人像にも見られる伝統的なものであるが、同時にこのモチーフは、ラ・トゥールの作品群という文脈内においてみると、視覚の限界、視覚の遭遇する困難性、可視と不可視の戯れといった一連のテマティックを予告するものとなっている。
 たとえば、ラ・トゥールの初期には、老いた楽師の全身像を描いた作品が3種類存在する。犬を連れたもの、楽師が口をあけて唄を歌っているもの、そして口を閉じた横顔をみせているもの、以上の三種類である。こうした老人の主題は、中世からフランス絵画、フランドル絵画に現れるようになり、特に十六世紀末にはロレーヌ地方でも流行していた。同地方の画家ベランジュや版画家のカロにも、こうした辻楽師の老人像の作品が見られるのである。しかし、ラ・トゥールにおいて特徴的なのは、いずれの老人の顔にも、瞳の描写が存在しないことだろう。おそらく物乞いをして回っていた辻音楽師は、ローゼンベルクの解釈によれば、盲目だと推測されている。とりわけ犬を連れた楽師像のケースは、グラン・パレのカタログでも、次のようにコメントされている。すなわち、その犬は、「目を輝かせて観客を見つめているが、そのような目は、その犬の恐い主人には欠けているものである」(44)。
 実際、ラ・トゥール的な登場人物たちが、観客のほうに瞳を向けていること(映画で言うところの「カメラ目線」)はほとんど皆無と言ってよい。おそらく、初期に書かれたキリストの正面像と、この犬と、つぎにとりあげる「楽師たちの喧嘩」において、右端にいるバイオリニストがそのすべてであろう。「楽師たちの喧嘩」で、登場人物たちの喧嘩の種になっているのは、商売がたきの楽士が本当に盲であるかどうかを確かめることである。中央右のやや若い楽師が手に握って振りかざしているのはレモンであり、その汁を相手の目に振りかけようとしている場面だとローゼンベルクは指摘している(45)。この題材は、ベランジュの版画も先行作品があり、ラテン語で《 Mendicus mendico invidet 》、すなわち「乞食が乞食を嫉む」という寓意として知られているものである。
 これらの初期作品は夜景画ではないが、感覚の五官のうちでいえば、あきらかに視覚に関連するモチーフを浮き彫りにしている。むろん、ここで描かれているのが、聖人のヒエロニムス以外はみな、聴覚をもって生業とする音楽家だということも関連しているだろう。しかし、ラ・トゥールの同時期の作品のなかには、音楽家でない者たちの振るまいが自らの視覚の限界を際立たせているような作品も二枚存在する。
 そのひとつは『女占い師』である。ここでは詐欺の犠牲者は、裕福な青年である。彼は画面の右にいる老婆から自らの将来に関する占いを聞き、その代金を手渡しているが、支払いの交渉に気をとられている隙に、中央の女性が金の時計を盗もうとしていることに気がつかない。さらに、画面の左端の女性が、彼のポケットから財布をすろうとしているのも、彼にとっては死角なのである。それだけ彼が老婆との対話に神経を奪われているのは、もしかすると自分は老婆の占いにだまされているかもしれない、と疑っているからだろう。しかし、若者が貨幣の授受と、スリたちの手とを同時に見ることは不可能である。その意味では、観客の視点だけが、それらすべての現象を観察できる視点を確保していることになる。 
 もうひとつ、似たような風俗的題材の作品として、『いかさまカルタ』と呼ばれている作品がある。トランプで金を巻き上げられようとしているのは、ここでも裕福な若い青年である。彼の視点からは、左端の男が背中に隠しカードを挟んでいることを見ることはできない。それは中央の女主人も同様である。彼女は召使の女性を通じて、かろうじてその情報を聞き出しているかのようだ。いっぽう、われわれ観客の位置からは、そうした彼らの可視性と不可視性のゲームをすべて見通すことが出来る。だが、この作品においては、この全知の視点である観客からも、たったひとつ見えない死角が残っている。それは観客の正面にいる女主人の骨牌の表の面である。完全情報ゲームを司る神のごとき観客=画家の眼からさえ、永遠に見ることのかなわぬ盲点が存在しているのである。
 このようにして、白昼の明るい世界のなかにも、夜の闇と同じような黒点が、不可視の領域のあることが、すでに示唆されているとは言えないだろうか。ただし、前期に描かれた昼の世界においては、光源が画面に現前することは決してなかった。太陽光にせよ、なんらかの照明であるにせよ、光の線条はおろか(カラヴァッジョの『女占い師』や『聖マタイの召命』には光線の角度が描かれている)、その入り口たる窓すら描かれたことはない。
 いっぽう、後期になってから描かれる夜景画のケースにおいては、画面は闇に包まれる比率を圧倒的に増しているが、それは蝋燭のような光源が、具体的に情景内に現前し、光と影のコントラストが強まるためである。ラ・トゥールを有名ならしめたマドレーヌの三部作においては、そのうちの二枚において、一本の蝋燭のそばに鏡が配置され、光が反射され、室内に増幅している。「意識の質は視覚の質に依存しており、ラ・トゥールの作品における鏡のテーマはそれが伝来もっていた象徴的価値をはるかに凌駕しているほどである。というのも、彼は主体に自己自身を観察の対象と見なすよう、すなわちデカルト的な表現を使えば、『おのれの眼差しの切っ先を自己自身へと向ける』よう、仕向けているからである」(46)と指摘するのはランボールである。事実、物理学者として屈折光学にも手を染めていたデカルトにとって、『形而上学的省察』の論証における真理への導きの糸となっていたのは「自然の光」lumine naturali (47)にほかならなかった。
 光源としての《 lux 》と、その源泉の結果としての《 lumen 》とを峻別することは、もともと16世紀から古典主義時代にかけて、哲学上のトポスのひとつになっていた。その対立の中心にあった議論は、神性としての《 lux 》が、果たして《 lumen 》のように可感的な物質的性質を備えているかということである。だが、この形而上学的な区別は、後にケプラーにおいて、光の非物質性という考えによって統一的に解消されることになる。カトリーヌ・シュヴァレイによれば、それはこの天文学者において、光学的というよりも神学的な理由からである。すなわち、「ケプラーは人間の有限性を神的な不変性にたいして位置づける必要をもっておらず、それはケプラーにとって人間が完全に理解する能力を持っているからである」(48)。
 いっぽう、ラ・トゥールにおいて独自なことは、神性の顕現とも言うべき《 lux 》じたいが、直接に観客の目に見えることを徐々に避けるようになってくることである。その兆候は、画面の主題で中心となる人間たちが、しばしば瞳を閉じたまま、あたかも盲人のように描かれている事実として認められる。たとえば、二種類のキリスト生誕図では、中心となる幼子イエスは、眠ったまま目を閉じた場面で描かれていたし、『聖ヨゼフのもとに現れた天使』でも、ヨゼフは眠ったまま、天使のもつ光明に気づかない。『聖アレクシスの遺体の発見』では、聖アレクシスがすでにこときれて、瞼を永遠に閉ざしており、『イレーネに看取られる聖セバスチャン』でも、矢に撃たれた殉教者は、すでにこの世の光を見ることはない。
 こうした後期の明暗法においては、露呈されていた光源は、徐々に観客自身の視点に対しても遮蔽されるようになってくる。例えば、『ヨブ』や『蚤をとる女』では、光源が可視的な存在として現前していたのにたいし、『大工の聖ヨゼフ』では、幼いイエスが右手で蝋燭をもちながら、左手でその光がじかに観客に見えないよう、遮るようなしぐさをしている。日常的に考えれば、炎がなびかないように風を遮る手つきだと解釈できないこともない。さきほどの二種類のキリスト生誕図でも、それぞれ男性と女性が、手にした蝋燭に、空いたほうの手を横からかざすようにして、火を守っているように見えるのである。
 しかし、クリーヴランド美術館所蔵の『聖ペテロの改悟』では、蝋燭は足下のランプ器具の中に入れられ、観客はじかに炎を見ることはできない。さらに、1640年代に描かれたと推定されている『聖ヨゼフのもとに現れた天使』では、天使の両手はもはや炎を風から守るのではなく、完全に光学的・視覚的な構図の配慮から、炎を遮る位置に配置されている。こうして、画面内に光源が存在しながらも、同時にその炎が直接は観客の視点から見えないような、一種の複雑な状況が出現する。「複雑」といったのは、いわゆる逆光の位置にある人物や品物が、絵画的状況のなかに出現しているからである。そこでは蝋燭などの灯が、ちょうど金環食の光輝のように、人々の手や肩ごしにのみ、画面のこちら側へほとばしり出ているのだ。光源が前景の人物と後景の人物との中間に配置されているため、そのあいだにはいわば光の襞が生まれているかのようである。こうした《 lux 》の折り込みは、聖人が左隅に追いやられて光源がふたつ存在している『聖ペテロの否認』のナント美術館所蔵のヴァージョンや、最晩年の作と思われる『ダイス遊びをする人々』にまで見受けられるという点で、ラ・トゥールの後期を特徴づける明暗法の核を成すものである。
 しかし、その核において、最も重要なことはつぎの点である。すなわち、炎が観客の目から隠されるということは、原理的に、画面を描いてる画家の目からも、それが隠されているということである。要するに、ラ・トゥール的な明暗法のその最も尖端が触れている可能性というのは、画家自身の視覚であり、画家自身の明視と盲目の接点だということになる。それを端的に物語っているのが、晩年に登場する一連の世俗的な肖像画である。召使の少年少女たちが、日常の家事のなかで火をとりあつかう場面を描いたそれらの作品群は、小品ながらも愛すべき佳品であるとか、地方風俗的なリアリズムの趣向であるとして片づけてしまうことのできない特異な問題を含んでいるように思われる。
 たとえば、八王子の富士美術館が所蔵している『煙管をもつ少年』を見てみよう。1650年前後の作とされるこの絵では、煙草に火を移すために、松明の火を吹いている従僕の横顔が、闇のなかに浮かび上がっている。この若い男の描写は、『聖アレクシスの遺体の発見』で松明を持っている召使との類似が指摘されているが、煙管の若者の松明は、熾き火になっており、いささかも火焔をあげていない。
 そうした炎の状態は、風俗画の『ランプをもつ少年』の松明も同様である。そこでは年の若い召使が、やはり火種を移すために、炭火になった松明を、頬を膨らませて吹いている光景が描かれている。やはり1650年前後に描かれた、その女性版とでもいうべき『熾き火をもつ少女』では、火鉢を持った召使の娘が、口をとがらせて火を吹いている。これらの三種類の作品ではそのいずれも、1640年代のマドレーヌ像における蝋燭のように焔がたちのぼってはいない。
 むしろこれらの三枚では、彼らが吹くのをやめたとたん、炭火の勢いが衰えて、あたりは闇に包まれてしまいそうである。それらの光源はもはや手で覆い隠す必要もないほど暗いので、逆にその熾き火をもっと燃え立たせねばならない。さもなくば、家事にいそしむ召使たちのみならず、画家にとっても仕事の対象である光景そのものが見えなくなってしまうだろう。視野がその光をいっさい失うということは、画家にとって、対象世界が不在となることと同義である。視覚的表象としての絵画において、少なくとも、17世紀の具象絵画において、それは作品が存在境界の線上に差しかかることを意味する。ラ・トゥール以後も、レンブラントに至るまで夜景画の系譜は続いてゆくが、迫真の肖像画の描き手として名高いレンブラントにすら、このような絵画の存在論的な限界を露呈させた光源の使いかたというのは見当たらないのである。
 しばしば『煙管をもつ少年』や『ランプをもつ少年』は、世俗的な家事の場面を近代的な写実主義の立場から克明に描いた作品だとされてきた。なるほど、反逆児のカラヴァッジヨでさえ、天使の翼を描いていたのにたいし、ラ・トゥールは、天使を描くときにも、決して翼をつつけたことのない画家である。しかし、これらの三作品がいわゆる写実主義でないことは明らかだ。実際、画家が目の前で一瞬だけ、明るくなる炭火の頂点をとらえて、闇の中で手もとのパレットの色彩も見えないままに絵を描き続けるなどという作業が、はたして現実的に可能だろうか。これらの三作は、写実主義というよりも、むしろ人為的な構築物であり、当時流行していた夜景画のパラダイムのなかで、ラ・トゥールが独自性を追究していった過程で到達したひとつのリミット、ひとつの飽和点を描き出していると言うべきである。視力を奪われた盲人たちを描くことから出発した画家は、こうして視力を持ちながらも光を失うという盲目の構造を画面に定着させることによって、視線の対象としての絵画じたいの存在論的規定にまで到達してしまったのではなかろうか。
 夜景画においては、その色やかたちなど、すべてがひとつの光源から発して可能になる。部屋に導き入れられた光源こそが、あれらの諸々の題材を、画家の目から見て描くにたるものとして存在させているのだ。『妻に嘲られるヨブ』において、その光が宿っている最も印象的な白い点、画面上のハイライトは、女性の耳もとに輝いている涙のかたちをした耳飾りであろう。ラ・トゥールの作品全体を通じて、これと同型の耳飾りを付けている女性は他に三人いる。『女占い師』の左端のスリ、『いかさまカルタ』の中央の女主人、そして晩年の『ダイス遊びをする人たち』における右端の婦人である。
 それらの場面の主題になっているのは、金銭の授受・窃盗・賭博である。では、問題の絵におけるふたりの人物たちのあいだにも、同種のコミュニケーションが展開されているのだろうか。しかし、『女占い師』『いかさまカルタ』『ダイス遊びをする人たち』の三作と、『妻に嘲られるヨブ』とのあいだには、重要な違いもある。それは、『妻に嘲られるヨブ』においては、耳飾りの女性が光源を持ち来らすことによって初めて闇が追い払われ、ふたりのあいだにコミュニケーションが可能になっているという点である。画面の四隅に沈殿している漆黒の闇、これこそが、本来そこに存在していたはずの空間である。ところがそこに存在しなかった光が持ち来たされることによって、初めて登場人物たちは、おたがいを認めあう。そのとき対話の可能性が生まれる。まさしくその瞬間に、この光景の意味も、この作品の主題も生成するのである。彼女は光を与える者であり、同時にまた、光を与えることという出来事の場処の生起でもあるのだ。
 たとえば、『ヨブ記』のなかで、ヨブは自らの答弁をつぎのような言葉で始めている。「わたしの生まれた日は消えうせよ。男の子をみごもったことを告げた夜もまた。その日は闇となれ。神が高みから顧みることなく、いかなる光明clartéもこれを輝かすな。暗黒と死の闇がその日を贖って取り戻すがよい」(3章3-5節)。彼はこんな受難を受けるならいっそ生まれてくるのではなかったと、自分の生まれた日を嘆いているのである。ここから『ヨブ記』の作者は、ふんだんに光のテマティックを展開する。「その日には、夕べの星も闇につつまれ、待ち望んでも光la lumière は差さず、曙のまたたきを見ることもないように」(3章9節)。さらに先の部分でも、このテキストは、ヨブに自らの境涯を次のように語らせていることを忘れてはなるまい。「なぜ労苦する者に光la lumièreを賜り、悩み嘆く者を生かしておられるのか?」(3章20節)。
 そうした光の到来は、登場人物たちのあいだのコミュニケーションと同時に、画家とわれわれのあいだのコミュニケーションをも可能にしている。絵画においては、光の到来という出来事は、たんにその場面の演出や構成に関るだけではなく、出来事とそれが生起する舞台そのものを、現実なかに画布として存在させるからである。光は闇のなかに到来することによって、人間たちのあいだに差異を、緊張を、ドラマを生み出す。光に基づいて、彼らは表情をとり、それぞれ彼らの姿勢を演じる。それとともに、この光の到来は、真理のメッセージの到来というよりも、一個のささやかな絵画作品を世界の中につくりだすのである。五官の対象となるもろもろの事物存在としての芸術作品のなかで、目で知覚しうる存在としての絵画作品というジャンルを存立させているのは、ほかでもないこの光である。バロックは新しい光と色彩の体制と不可分であると語ったのは、ライプニッツ論のジル・ドゥルーズだが、「光は白を作り出すが、また影も生み出すのだ」(49)とすれば、ラ・トゥールの燭光は、まさしくそうした視覚の領野を作りだす根源的な視力でもあるのだ。それこそが、画布という二次元の平面のなかに光を折り畳むことによって、絵画と呼ばれる芸術作品をそのつど世界のなかに在らしめるものなのではなかろうか。


原註

(1) Béatrice de Rochebouët, « La Tour ou pas La Tour ? », Le Figaro, 12 novembre 1993.
(2) Pierre Rosenberg et Marina Mojana, Georges de La Tour : catalogue complet des peintures, notice traduites par Isabelle Rabourdin, Bordas, 1992. Jean-Pierre Cuzin, Pierre Rosenberg et Jacques Thuillier, Georges de La Tour, Réunion des musées nationaux, 1997.
(3) René Char, « Feuillets d’Hypnos », Œuvres complètes, Gallimard, Bibliothèque de la Pléiade, 1995, p. 218.
(4) ピエール・ゲール著、『ルネ・シャール』、山本巧訳、思潮社、1969年、34頁。
(5) Char, op.cit., p. 731.
(6) Ibid., p.1381.
(7) Ibid., p.481.
(8) Ibid., p.1367.
(9) Charles Sterling, Les peintres de la réalité en France au XVIIe siècle, catalogue de l’exposition de l’Orangerie, Paris, 1934, p.67.
(10) Ibid., p.67-68.
(11) Ibid., p.68.
(12) Ibid., p.68.
(13) Ibid., p.68.
(14) André Malreaux, Les Voix du silence, Gallimard, 1951, p. 388-389.
(15) Pierre Rosenberg et Jacques Thuillier, Georges de La Tour, introduction par Pierre Landry, catalogue de l’exposition de l’Orangerie, Paris,1972, p. 212.
(16) 『ヨブ記』第2章第9-10節、『聖書』新共同訳、日本聖書協会、1989年、p. 777。Cf. La Bible. Ancien Testament 2, traduction œcuménique, Le Livre de Poche, 1990, p. 182.
(17)「1972年、オランジュリーパリのプロヴァンス美術館の修復作業部会によって精密な修復が実施された。その機会に画家の署名も発見され、最後に残っていた疑惑も晴らされることとなった」( Pierre Rosenberg et François Macé de Lépinay, Georges de La Tour : Vie et œuvre, Fribourg, Office du Livre, 1973, p. 150 )。
(18) J.-P. Cuzin, P. Rosenberg et J. Thuillier,op.cit., p. 160.
(19) Michel Serres, « La Tour traduit Pascal », La Traduction, Hermès III, Minuit, 1974, p. 219.
(20) Ibid.
(21) Ibid., p. 220.
(22) Ibid.
(23) Ibid.
(24) Ibid., p. 218.
(25) Ibid.
(26) Ibid., p. 221. 
(27) Ibid., p. 206.
(28) Rosenberg et Macé de Lépinay, op.cit., p. 150.
(29) La Bible. Ancien Testament 2, traduction œcuménique, Le Livre de Poche, 1990, p. 182.
(30) 浅野順一、『ヨブ記研究・法の神学』、「浅野順一著作集8」、創文社、一九八三年、五〇頁。浅野にによれば、前者は四肢が腫れ上がり、黒ずみ、その症状があたかも象のようになるので、「elephantiasis」(象皮病)と称される。いっぽう「癩」にあたる後者の語は、人体のみならず家屋・衣服についても認められる一種の黴を指すものである。浅野自身は問題の皮膚病が「癩であるかどうかは明らかではない」と述べている。
(31) Pascal Quignard, La nuit et le silence, FLOHIC, 1995, p.63.
(32) Quignard, op. cit., p. 63-65.
(33) Serres, op. cit., p. 207.
(34) Ibid., p. 209.
(35) Rosenberg et Thuillier, op.cit., p. 212.
(36) Ibid.
(37) Cuzin, Rosenberg et Thuillier, op.cit., p. 160.
(38) Ibid.
(39) C.G. ユング、『ヨブへの答え』、林道義訳、みすず書房、1988年、29頁。
(40) Philippe Nemo, Job et l’excès du mal, postface d’Emmanuel Levinas, Albin Michel, 1999, p.115.
(41) いっぽう、こうした排除現象と逆向きだが、ヨブの妻に過剰な理論的負荷を加え、抑圧・消去している例がある。日本の文芸批評家の柄谷行人である。柄谷は「たとえば、『ヨブ記』では、神の試練に対して信仰を貫いたヨブは、最後に妻および同数の子供(男7人と女3人)とより多くの家畜を与えられている。[・・・] たしかに、かれは健康になり、妻子・財産を回復したのだから、同一性が回帰したことになる」として、死ななかったはずのヨブの妻を死んだと思い込み、物語の最後で新しい妻が付与されたとしているのだ(柄谷行人、「単独性と特殊性」、『探求II』第一章、講談社学術文庫、1994年、16-18頁)。柄谷は、早稲田大学で行った「単独性と個別性について」という講演でも、「その『ヨブ記』にも実はお返しがあるのです。それはハッピーエンドになってはいるものの、奇妙なハッピーエンドになっている。神は、ヨブにもう一度すべてを与えます。もちろん妻も与えるわけです。昔の妻ではなくて、新しい妻です」(柄谷行人、「単独性と個別性について」、『言葉と悲劇』所収、講談社学術文庫、1995年、309-311頁) と発言している。たしかにこれはヨブの妻当人にとっても「奇妙なハッピーエンド」と言うべきだろう(!)。
(42) Emmanuel Levinas, « Transcendance et mal », in Job et l’excès du mal, p. 154.
(43) Anne Reinbold, Georges de La Tour, Fayard, 1991, p.91-103.
(44) Cuzin, Rosenberg et Thuillier, op. cit., p.119. 
(45) Rosenberg et Mojana, op. cit., p.33.
(46) Reinbold, op. cit., p.97.
(47) Descartes, Méditations métaphysiques, Flammarion, 1979, p. 104. 
(48) Catherine Chevalley, « Sur le statut d’une question apparemment dénuée de sens : la nature immatérielle de la lumière », XVIIe siècle, 34e année, No. 136, p. 262.
(49) Gilles Deleuze, Le pli : Leibniz et le baroque, Minuit, 1988, p.44.                    [fin]

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Commentaires

初めまして、Juliaと申します。
ラ・トゥールの真作について調べていたら
貴blogに訪れました。

私のblogから少しだけ貴殿の文章を
抜粋させていただきました(コメント覧)です。

大変恐れ多いのですが、コメント覧より貴ブログへ
リンクを貼らせていただきます。

また、TBもさせて頂きます。

Rédigé par: Julia | le 13/07/2005 à 20:18

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