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「類似と相似 :フーコーとマグリット」

2007年3月付けで、専修大学文学部紀要、『人文論集』第80号にフーコー論を発表しました(p. 175-198)。フーコーがベルギーのシュルレアリストについて書いた『これはパイプではない』の初出版と決定版の比較対照がメインテーマです。以下に、論文の冒頭部だけを抜粋のかたちでUPしておきます(注は割愛しています)。

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ミシェル・フーコーとルネ・マグリットの出会う場処、――例えば、それはフーコーの『言葉と物』の冒頭に出てくる、J・L・ボルヘスの紹介していたシナの百科事典の一ページのように、何処にもない虚構の場処なのだろうか。伝記的な事実についていえば、例えばパリのヨラス画廊で、1966年末から開かれた個展の際に、両者の会見が見込まれていたことともあった。だが、それと前後してフーコーのチュニジア大学への派遣が決まったために、二人の対面は、そのまま果たされずに終わっている。翌1967年8月、70歳近い画家のほうが他界してしまうからである。

ただし、彼ら二人のあいだには、往復書簡の形をとった交流が短期間にせよ続いていたことも事実である。ことの発端は、フーコーが1963年に書いたレーモン・ルーセル論を、画家に進呈したことにある。これをきっかけに、彼らは何回か書簡を交換しているが、現在ではその一部が彼らの著書のなかで一般に公開されている。それによると、彼らの話題はルーセルだけでなく、66年にフーコーが出版した『言葉と物』の表象論やベラスケス論、またマグリットがマネの『バルコニー』という作品を前提にして制作した、『パースペクティヴ』という絵画にも及んでいる。そして、このような哲学的言語と美術的視線の交流のなかから、やがてフーコーのマグリット論が書かれることになる。すなわち、マグリットが書簡に同封した『これはパイプではない』という絵を題材にして、フーコーがまず1968年の年明けに、≪これはパイプではない≫という雑誌論文を発表し、それから5年後にさらに大幅な加筆訂正を施した単行本、『これはパイプではない』を上梓するのである。

マグリットは、パイプの図像の下に、「これはパイプではない」(Ceci n’est pas une pipe)という手書き文字をつけた絵を、生涯にわたって何度か制作している。図像と言語のダブルバインド的な関係をテーマとしたこのシリーズのなかから、フーコーは最も初期の作品と、最後の作品とを選び、図像と文字が同語反復的な合致を遂げている「カリグラム」――同名のアポリネールの詩集を想起してほしい――という象形文字をモデルにして分析している。すなわち、マグリットは伝統的な「カリグラム」をふたたび図像と文字に解体することで、その同語反復の機能を倒錯化させ、西洋近代の古典的な表象空間を決定的に侵食しているというのである。

このフーコーのマグリット分析をめぐっては、これまでもいくつかのアプローチが試みられているが、例えばドミニク・シャトーのフーコー論は、フーコーの展開している主要な問題系が、「摸像」(simulacre)というクロソウスキー的概念に基づいているにもかかわらず、その概念的な資格規定という観点をあまり重視していない。そのためシャトーは、フーコーとマグリットの対話可能性を、画家と批評家という職業的な地位規定の次元に還元せざるをえず、結果としてその結論は、作品の作り手と受け手といった、いささか定型的な構図に収納されることになってしまっている。

「同一性」(identité)という概念の近傍に、二つの微妙な概念系列を区別する必要があるという認識は、すでにフーコーの1964年のクロソウスキー論「アクタイオンの散文」でも示唆されていたものである。フーコーによれば、ソシュール的な構造主義言語学が、記号とその意味を記号体系の内部で確定されたものとみなすのに対し、クロソウスキー的な世界では、一義的に意味が決定されないような「摸像」と呼ばれる記号が跳梁跋扈している。そのクロソウスキー論では、「摸像」は「分身」(double)とも呼ばれているが、哲学者ジル・ドゥルーズの『フーコー』も強調しているとおり、これこそフーコーの仕事につねにつきまとっていた最重要のテーマの一つにほかならない。

その意味では、『ファントム・コミュニティー』(5)のスコット・ダルハムのほうが、同書の第2章「摸像を求めて」のなかで、シャトーより的確なフーコー読解を提示していると言えよう。ダルハムはクロソウスキーの『ディアナの水浴』を参照しながら、フーコーのマグリット論における≪ ressemblace ≫と≪ similitude ≫という近接した二種類の概念を照らし分け、その理論的な資格規定の重要性を指摘しているからである。だが、これら二種類の概念上の位相差を主題化するのであれば、ドゥルーズやダルハムの議論の前提として、クリアしておかねばならない作業が残されているはずだ。それは、フーコーのマグリット論の初出版と単行本版の比較検証である。

その理由は他でもない、両方の版によって、これら二種類の概念の分化様態が大きく変動しているからだ。さきほど述べたような「摸像」「分身」といったテーマの重要性に照らして言えば、これらはまったく別のマグリット論だということすら可能かもしれない。ドゥルーズたちが取り上げているのは、単行本版の『これはパイプではない』(FM)だけである。しかし、フーコーの思考体系のなかで、≪これはパイプではない≫(CDCH)では未分化であったこれらの概念が、なぜ5年後には明確に区別されるに至ったかを生成批評の観点から分析することは、哲学者と画家の交差をより広い思想史的な地平に定位するためにも、不可欠の作業であるように思われる。
 

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