「不実な鏡」
先年のシンポジウムをもとに、J.-L.Godard『中国女』と『夜明けの国』をめぐる受容史的な比較論を、下記の共著に寄稿しました(p.140-149)。単行本そのものは、中国現代文化論として、たとえば東方書店などでも比較的よく売れているようで幸いです(分野違いの拙稿が他の専門家のかたがたの「足を引っ張る」ことだけは避けられたようです)。土屋さんをはじめ、関係者の皆さんにはいろいろお世話になりました、ここに謝意を記しておきたいと思います。
◆土屋 昌明 (著, 編集), 鈴木 一誌 (著), 前田 年昭 (著), 中島 隆博 (著), 下澤 和義 (著), 印 紅標 (著), 森 瑞枝 (著), 時枝 俊江 (著), 岩波映画製作所 (著)
『目撃!文化大革命 映画「夜明けの国」を読み解く』
DVD付 (DVDブック) (単行本)
太田出版; A5版 (2008/4/10)
ISBN-10: 4778311108
以下、拙論の「不実な鏡」の書き出しの一部だけをアップしておきます。続きは、本書のほうでDVDとともにどうぞ。
不実な鏡
I
かつて紅衛兵だった張承志が、一九九五年に興味深い『中国女』論を書いている。それによれば、八〇年代以降の中国の映画・文学界では、先進国のモダニズムであれば、以前の文化大革命の圧制にたいする批判になりうるとして何でも価値があるとみなされ、フランスのヌーヴェル・ヴァーグも、中国映画界におおいに受け容れられたという。
そのかわり、ヨーロッパ・モダニズムに毛沢東思想が与えた影響については、外国人以上に理解できず、それを分析しようとする関心も見られなかった。「毛沢東思想と中国革命によって呼び起こされた六〇年代の西側におけるさまざまな出来事に対して、反感を抱きながら理解しようともしない、というのが、中国文化・思想界の一般的な態度であろう」(1)。
張承志が例としてあげているのは、しばしば『中国女』のなかで引用されている『毛語録』である。というのも、「ゴダールの言う『映画の訓練をほとんど受けていない人々』、はたから見るよりはるかに真面目に『毛語録』を読んだものの二度と読みたくはないという複雑な心理を持つ中国人にとっては、こうしたシーンは反感を起こさせるものであるかもしれない」(2)からである。張承志は、フランスの毛沢東主義者の若者たちがバルコニーで『毛語録』の文章を唱えながら体操するシーンについても、つぎのように言っている。
これらは、『毛語録』で祈り、歌い、踊るという、当時中国で流行った俗なる病に似すぎているため、中国人にとっては辛いほどに皮肉である(3)。
ところで、これと一見似たような感情的反発は、文革当時のフランスでも起きている。非共産党系の定期刊行物である、『ヌーヴェル・オプセルヴァトゥール』、『ル・モンド』、『コンバ』、『フランス・ソワール』などは、『中国女』にたいして、賛否両論はあるにしても、総体としては好意的だったらしく、イデオロギー的側面はぼかしたまま、ゴダールを「現代の抒情詩人」(4)とみなしていたのだが、否定的反応としては、つぎのような三者三様の立場があった。
第一は、この映画はそもそもブルジョワ子弟の政治ごっこを描いた戯言にすぎないとする、右派の大衆新聞『ル・フィガロ』の立場である。第二は、ゴダールの親中国的な立場を有害な誤謬として批判する共産党系の機関紙『リュマニテ』の立場である。そして、第三の立場として、共産党から除名された極左勢力、すなわち、自らの誠実な政治活動を戯画化されたと反発する親中国派の立場がある。張承志が考察している反感のタイプに最も近いのが、この最後の例であろう。
フランスの親中国派には、具体的には、六六年六月に結成されたMCF《ML》(「マルクス・レーニン主義的」フランス共産主義運動)の機関紙『リュマニテ・ヌーヴェル』と、同年十二月に結成されたUJCML(マルクス・レーニン主義的共産主義青年同盟)の機関紙『マルクス・レーニン主義ノート』があった。前者については、六七年冬にミシェル・デュヴィニョーが各種媒体の状況を考察しており、「『リュマニテ・ヌーヴェル』の執筆陣が、自分らと同じ立場を表象し、ときにはきわめて滑稽なまでにその任務を果たそうとする登場人物たちを前にして苛立ったのは、たやすく理解できる」(5)と記している。後者については、ゴダール自身が封切り当時の対談で、つぎのように語っている。
私の映画の登場人物たちには、マルクス=レーニン主義者ではなく、いっそ紅衛兵と名乗らせるべきだったかもしれません。私たちは、いくつかの曖昧な点を避けられたでしょう。そうすれば、マルクス=レーニン主義の学生たち、そのきまじめさゆえにまさしく心を衝つ学生たち、『マルクス=レーニン主義ノート』を発行している学生たちも、ひょっとしたらあんなふうに映画に苛立つということもなかったかもしれない(6)。
このようなフランスにおける親中国派の反応は、スクリーンのなかに自己像を見い出しているという意味では、張承志がとりあげていた反感の構造と確かに似ているが、そこには相違点もある。張承志が説明しているような心理的抵抗は、中国人たちから見て、『中国女』に見い出されるセルフイメージが、あまりに自己に「似すぎているため」に生じている。だが、フランスの親中国派は、自分たちがスクリーンのなかに認めたセルフイメージが、滑稽なまでに歪んでいると思い、それが映画という鏡面の歪みからくるものだと非難しているのである。そのため、不実な鏡としての『中国女』は、『リュマニテ・ヌーヴェル』からは、「ファシスト的挑発」だと難じられ、UJCMLからは、「極左冒険主義」だと決め付けられることになったのである(7)。 [以下は本書をどうぞ]
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